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2011年02月24日

大友宗麟大おもて会

2月27日に大おもて会が、大友氏遺跡体験館で開催される。

市民活動で大分が変わっていけばいいのだけれど、

若い人にとって大友宗麟はあまり関係ないのだろう。

若い人が一緒にやれるような会にしなければ。

大友家の崩壊も上の人達の考えと部下の考えが

かみ合わなかったのが、耳川の戦いだと思う。

人間慢心が恐いものだ。



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Posted by アイキュウ at 18:34Comments(0)

2011年02月19日

大友宗麟と外国

大友宗麟が生きた1500年中頃は、

日本が大きく変わろうとする時代でした。









鉄砲が伝来して、戦争のやり方も個人戦から団体戦へと変わり、

主力部隊も馬から鉄砲に変化していきました。

混沌とした時代から、中央集権国家に変化していきました。










大友宗麟は、貿易を中心とした財力をもとにして、

足利将軍に贈り物をして、九州管領というポジションを

賜ったということになります。

戦闘に対して言えば、さほど上手ではなく

どちらかと言えば、経済大名だったのではないでしょうか。

耳川の戦いの時にも実際に戦っていたわけではなく、

延岡のムシカにいて宴を開いていたようです。

戦いよりパラダイスを建国することを望んでいたようです。









結局、夢は破れて最後は豊臣秀吉に島津征伐を頼むようになります。

ここで、自分の目指していたものが崩れさり翌年には死去します。



夢破れて山河あり、国春にして草木深し  


Posted by アイキュウ at 13:36Comments(0)

2011年02月14日

大友宗麟と現代

2月10日の二階崩れの変も終わりました。

これから約20年間大友氏の最盛期が続きます。

大友宗麟が大分でも、それほど、有名ではなく、

坂本竜馬や西郷隆盛のような派手さがないのです。

当事、日本一といえる貿易港を持ちながら残念です。

市民の力で、大友宗麟の市民の参加できるイベントや

市民の憩える記念館や公園作りを考えたいですね。







今年、初めて、イベントが大友氏遺跡体験学習館で

開かれます。






市民の皆さんで手伝っていただける方は是非お申し出下さい。

市民の皆さんで楽しみましょう。

連絡は☎ TEL 097-537-5639に申し出下さい。  


Posted by アイキュウ at 07:15Comments(0)

2011年02月10日

ニ階崩れの変当日、2月10日

旧暦とは違いますが、今日がニ階崩れの変があった日です。

大友宗麟は別府に行って不在でしたが、

約450年前の2月10日に現実に起こったことです。

大友宗麟の栄光と挫折も2月10日に始まりました。

もし、2階崩れの変が失敗していたら、

大友宗麟の人生もは大きな栄光はなかったが、

大きな挫折もなかったかもしれない。

大友宗麟の栄光の第1歩が2月10日なら、

大きな挫折の第1歩が11月12日なのかもしれない。

ニ階崩れの変と耳川の戦いが宗麟にとって

大きな転機になった出来事だと思う。

方丈記のゆく川の水は絶えずして、また、元の水にあらず

という言葉が宗麟の28年間を表しているような気持にさせられる。

祇園精舎の鐘の声、盛者必衰の理をあらわす、偏に風の前の塵りに同じ。  

Posted by アイキュウ at 08:08Comments(0)

2011年02月07日

大友宗麟二階崩れの変 入田家その後

二月十日までは、二階崩れの変関連を

書きたいと思いmす。

二階崩れの変で大友宗麟の立場も大いに

変わったと思います。

今まで、反大友宗麟派だった人々はどうなったのでしょう。

かなりの粛清があったものと考えられます。

一夜にして政権が変わったようなものです。

今のエジプトより大変だったでしょう。

やはり、重要なポイントになるのが、

入田親誠で謀反失敗で殺されている。

入田家は1336年の大友貞宗の五男千代丸への

家督相続争いの時から大友惣領家への反乱は

続いていて、それが、1586年の島津軍が、

府内にせめて来て入田宗和が、

大友家を裏切るというところまでつながっていく。

入田宗和は日向に1千五十石を島津軍から給わり

子孫は島津軍に仕える。

これから見ると、大友家の子孫は徳川家に仕え、

入田家の子孫は島津家に仕えることになり。

1868年にはまた敵味方で戦うことになる。

歴史の因縁であろうか  


Posted by アイキュウ at 01:48Comments(1)

2011年02月04日

二階崩れの変 その後

大友宗麟と大友義鑑やはり仲が悪かったのでしょうね。

宗麟の初陣の詳しい話も詳しく記されていない。

普通、戦国の武将は何歳に初陣であり、

どういう活躍をしたという内容が書かれるはずであるのですが。

父親から見て、性格粗暴、体弱い、昔の女房の長男

くらいにしか見られていなかったのでしょう。

父親に愛されず、母親の愛も知らず(宗麟の幼いころ死去)

その、幼少期の不安定さが、大人になっての年増漁りや

人の迷惑は考えない性格になっていったのでしょう。

しかし、宗麟も信長と似たところがあり、

信長が楽市楽座を作ったように、経済的手腕には長けていた、

何故なら、博多港や府内港など九州の大きな港を所領し、

上方、朝鮮、明、東南アジア、南蛮などとの貿易で

巨万の利益を得ていたものと考えられます。

織田信長への贈り物や足利将軍への惜しみない

贈り物での、九州探題などという役職をもらっています。

戦国武将というより、経済的手腕に長けていて、

古いものには固執しない性格だったと考えられます。

神社、仏閣を焼いたり、らい治療院を大友館の近所に

置いたのもそういう表れだと思われます。

強い優秀な部下をたくさん持っていたので、

上手く使いこなせば、西日本は制覇できたかもしれません。

やはり、最後は心の弱さがキリスト教という

現実逃避の世界に自分の身を置き、

心の安らぎをを求めたのかもしれない。

やはり、最後は心の平安を自分なりに

築きたかったのだろう。

哀れなロンリーチャップリン  


Posted by アイキュウ at 02:24Comments(0)