大友義統と南蛮文化の衰退
では、昨日と同じ名前の読み方から入りましょう。
大友義統、なんて読むのでしょう。
「簡単、おおともよしとう じゃろが」
ブーです、不正解!
おおとも よしむね と読みます。
たぶん、「それで、誰よ?」
という方も多いと思います。
自分も昔の人の名前覚えきりません。
大友よしちん いえ 大友よししげ(宗麟)
の後継者です。
大友義統
大友家 第22代 当主です。
知らなーい、影薄ーい
という声が聞こえて来そうですが
その通りです。
宗麟との2頭体制も家臣団の分裂を招いたといえます。
1578年、耳川の戦い(小丸川の戦い)で、数では有利の中、島津軍に敗れ
大友軍戦死者は、約3000名といわれている。
勢いにのった島津軍に
戸次川の戦いで叩きのめされた。
戸次川古戦場跡
敗れた原因は、軍艦 仙石秀久の采配 ミスと
大友義統のビビりであった。
負けて、豊前まで敗走した。
しかし、臼杵、佐伯、竹田、杵築で善戦し、
豊臣軍の大軍が豊前に着くと
島津軍も薩摩に逃げ帰る。
秀吉の命により1587年 豊後一国のみの支配となる。
1593年朝鮮 鳳山j城を放棄して逃げ帰る。
豊臣秀吉
これが、元になり改易
ここで、大友家の豊後の国の支配も ジ エンド です。
たぶん、大分の南蛮貿易は1587年を境にして
国際都市としての機能を失ってしまったのでは
ないでしょうか。
以後花はなし大友文化(1587はなし大友文化)
と覚えて下さい。
では、図にのってもう一つ。
以後、くさい飯大友家改易(1593い飯、大友家改易)
と、またまた、覚えて下さい
1400年代の終わりから1500年代の終わりまでが
南蛮文化の黎明期だったのでしょう。
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